2009年 12月 31日
Uplifters No.30 |
Aim high. Be pure in heart. March toward a lofty ideal.
最近NHKで『遥かなる絆』というドラマがありました。中国残留孤児の実話をベースにした物語で、原作は残留孤児であった父親の半生を自分人生と交錯させながら家族史をつづった『あの戦争から遠く離れて』(城戸久枝著、情報センター出版局)。
ドラマは、文化大革命という災厄に翻弄されながら不動の決意で日本に戻ってきた孤児の奮闘を軸に、養母(付淑琴)への果てしない思慕、青春をともに過ごした友人への変わらぬ思いを描いています。つらい物語ですが、見終わったとき心が洗われ満ち足りた気分になりました。
ドラマでは、日本人であることがわかると、主人公はことごとく人生の進路を塞がれ、行き場を失っていきます。絶望の淵に追いやられていたとき、学校の恩師がこんな言葉を授けてくれます。
「車到山前必有路」――「車が山の前で行く道を見失ったときでも、必ずこの山を通り越せる道はどこかにある」。つまり、「行き詰っても打開の道はある」という意味です。主人公は、この言葉を支えにして困難に耐え、ようやく帰国を果たすのです。
この場面で、私は山崎豊子の大作、『大地の子』の一節を思い出しました。主人公・陸一心は残留孤児、その養父・陸徳志は小学校の教師。一心を引き取った直後、国共内戦が勃発。混乱の中で学校は閉鎖を余儀なくされます。そのとき、陸徳志は一心を含む子どもたちに向かって、こんな言葉を餞(はなむけ)として贈ります。
「志高清遠」――「志を高くもち、世俗の垢にまみれない清らかな心で、遠大な理想をもって生きる」。この言葉を励みに、一心は艱難を乗り越え日本に帰りつくことになります。
『大地の子』はフィクションです。フィクションですが、入念な取材の上につくりあげられた小説です。だから、この場面も脚色されてはいても、本当にあったエピソードなのではないかと思っています。
あの時代、膨大な数の残留孤児の悲劇が起きる中で、何千何万の「陸徳志」や「付淑琴」が現れ、孤児を自分の子どもとして育て、教育を授け、座右の銘を与えて自ら生きる手本となったのです。
実は、もう15年前くらいに『大地の子』を読んだときから、陸徳志の生き様に感銘を受け、その人が座右の銘にする「志高清遠」を、自分にも使わせてもらうことにしました。ちょっと恥ずかしい話ですが、1年ほど前、北京に仕事に行ったときに、骨董品街を訪れ、お店の書道家にこの言葉を揮毫してもらいました。いま、自宅の玄関に飾ってあります。
揮毫してもらったとき、これを英訳すればどうなるのかも考えました。今回のアップリフターは、そのときに自作したものです。「志高」は”aim high”。文字通り訳せば「高く狙う」で、そこから「高い希望をもつ」という意味になります。”high”という視覚的で動きのある言葉を使うことで、若々しい躍動感を込めました。
「清」は”Be pure in heart.”と訳してみました。聖書の中に「心の清き者は幸いなり」という一節があります。その英語表現が”Blessed are the pure in heart.”。それを借用しました。「遠」は、「遠大な理想をもって生きる」という意味なので、たやすく手に入らないが、理想に向かって突き進むという力強さを表現したいと思い、”march”という動詞を思いつきました。「行進する」という意味ですが、「歩み続ける」というニュアンスが出てきます。遠大な理想は”lofty ideal”。loftyは、屋根裏を意味するロフトの関連語です。高いところにあるものを指します。たやすく手の届かないところにあるものというイメージが湧きます。この二つをまとめて、”March toward a lofty ideal.”。
「志高清遠」の素晴らしさは、「遠」で終わっていることです。「志」をもつことは大切ですが、それは個人の世界の話です。めざすべき社会の「遠」に、その「志」を結びつける意識と行動があったとき、「志」は本当の輝きを見せるのではないでしょうか。
「志」も「遠」も中途半端だった中年男性の悔恨の弁です。
最近NHKで『遥かなる絆』というドラマがありました。中国残留孤児の実話をベースにした物語で、原作は残留孤児であった父親の半生を自分人生と交錯させながら家族史をつづった『あの戦争から遠く離れて』(城戸久枝著、情報センター出版局)。
ドラマは、文化大革命という災厄に翻弄されながら不動の決意で日本に戻ってきた孤児の奮闘を軸に、養母(付淑琴)への果てしない思慕、青春をともに過ごした友人への変わらぬ思いを描いています。つらい物語ですが、見終わったとき心が洗われ満ち足りた気分になりました。
ドラマでは、日本人であることがわかると、主人公はことごとく人生の進路を塞がれ、行き場を失っていきます。絶望の淵に追いやられていたとき、学校の恩師がこんな言葉を授けてくれます。
「車到山前必有路」――「車が山の前で行く道を見失ったときでも、必ずこの山を通り越せる道はどこかにある」。つまり、「行き詰っても打開の道はある」という意味です。主人公は、この言葉を支えにして困難に耐え、ようやく帰国を果たすのです。
この場面で、私は山崎豊子の大作、『大地の子』の一節を思い出しました。主人公・陸一心は残留孤児、その養父・陸徳志は小学校の教師。一心を引き取った直後、国共内戦が勃発。混乱の中で学校は閉鎖を余儀なくされます。そのとき、陸徳志は一心を含む子どもたちに向かって、こんな言葉を餞(はなむけ)として贈ります。
「志高清遠」――「志を高くもち、世俗の垢にまみれない清らかな心で、遠大な理想をもって生きる」。この言葉を励みに、一心は艱難を乗り越え日本に帰りつくことになります。
『大地の子』はフィクションです。フィクションですが、入念な取材の上につくりあげられた小説です。だから、この場面も脚色されてはいても、本当にあったエピソードなのではないかと思っています。
あの時代、膨大な数の残留孤児の悲劇が起きる中で、何千何万の「陸徳志」や「付淑琴」が現れ、孤児を自分の子どもとして育て、教育を授け、座右の銘を与えて自ら生きる手本となったのです。
実は、もう15年前くらいに『大地の子』を読んだときから、陸徳志の生き様に感銘を受け、その人が座右の銘にする「志高清遠」を、自分にも使わせてもらうことにしました。ちょっと恥ずかしい話ですが、1年ほど前、北京に仕事に行ったときに、骨董品街を訪れ、お店の書道家にこの言葉を揮毫してもらいました。いま、自宅の玄関に飾ってあります。
揮毫してもらったとき、これを英訳すればどうなるのかも考えました。今回のアップリフターは、そのときに自作したものです。「志高」は”aim high”。文字通り訳せば「高く狙う」で、そこから「高い希望をもつ」という意味になります。”high”という視覚的で動きのある言葉を使うことで、若々しい躍動感を込めました。
「清」は”Be pure in heart.”と訳してみました。聖書の中に「心の清き者は幸いなり」という一節があります。その英語表現が”Blessed are the pure in heart.”。それを借用しました。「遠」は、「遠大な理想をもって生きる」という意味なので、たやすく手に入らないが、理想に向かって突き進むという力強さを表現したいと思い、”march”という動詞を思いつきました。「行進する」という意味ですが、「歩み続ける」というニュアンスが出てきます。遠大な理想は”lofty ideal”。loftyは、屋根裏を意味するロフトの関連語です。高いところにあるものを指します。たやすく手の届かないところにあるものというイメージが湧きます。この二つをまとめて、”March toward a lofty ideal.”。
「志高清遠」の素晴らしさは、「遠」で終わっていることです。「志」をもつことは大切ですが、それは個人の世界の話です。めざすべき社会の「遠」に、その「志」を結びつける意識と行動があったとき、「志」は本当の輝きを見せるのではないでしょうか。
「志」も「遠」も中途半端だった中年男性の悔恨の弁です。
by homaranisto
| 2009-12-31 11:08
| アップリフター/Uplifters