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2007年 08月 01日
たしかイラク戦争が終わった頃、ですから2003年の春のことだったと思います。仕事でタクシーに乗ったとき、運転手が「最近、アラブの連中をあんまり街中で見かけなくなった。どこかに潜っているんじゃないか」と、さも不気味そうに話しかけてきました。
「そんなことはないでしょう」と、とっさに答えたものの、その何気ない言葉遣いに一瞬たじろぎました。 もしあの運転手に1人でも、中東の国たとえばパキスタンやイランから来た知り合いがいたなら、ああいうトゲのある言葉は出てこなかったでしょう。人としての付き合いがないから、偏見は頭の中でいくらでも膨らんでいくのです。 もちろん、人と人との付き合いがあれば偏見や妄想は抑えられるかと言うと、そうとは限りません。ユーゴスラビアのサラエボ市で仲良く隣り合わせに暮らしていたムスリムとセルビア人が、あっという間に殺し合うことになるのですから。これは、いかに人間が簡単に憎悪の虜になるのかの証です。といっても、だから人と人との付き合いは意味がないということではありません。むしろ逆で、だからこそもっと豊かな人間関係をつくらなければならないということでしょう。 ところで対人関係の基本はコミュニケーション。コミュニケーション、すなわち言葉です。サラエボの場合は、ムスリムもセルビア人も同じ言葉をしゃべっていました。それでも民族浄化(ethnic cleansing)が起きてしまいました。言葉がわからないときには、なおさら偏見と憎悪は増幅されがちです。 いまから120年ほど前に、そのことを真剣に考えた人がいました。ラザロ・ザメンホフ博士(1859-1917)です。博士は、「諸国民の憎しみよ、たおれよ」という願いのもとに、「新しい人工世界語」をつくり、その普及に努めました。その人工語の名前はエスペラント(「希望する者」の意味)。とくに、戦前は無産運動の力も得て、一定の広がりを見せました。 しかし、結果から見れば、エスペラントの国際共通語化の試みは成功しませんでした。それどころか、ザメンホフ博士が恐れた、強い国、大きい民族の言葉が世界を席巻しつつあります。英語です。英語はいまやリングァ・フランカ(lingua franca)と呼ばれています。 このリングァ・フランカについては、少し説明が要ります。リングァ・フランカとは中世から19世紀あたりまで地中海地域で使われていた交易用言語(trade language)で、イタリア語、スペイン語、オクシタン語(スペイン語とフランスの中間語)などからなる混成語(pidgin)です。混成語であるため、欧米の自然言語にあるような時制や格変化もない単純化された言葉です。「地中海のエスペラント」と呼ぶ人もいます。 英語をリングァ・フランカと呼称するのは通常、この原意からではなく、そこから転じて「共通語」という意味が現代英語にあるからです。ただ、むしろ原意に近い意味で英語をリングァ・フランカと呼んだ方が、私の思いに近づくかもしれない、と考えています。 私の勝手な解釈ですが、ザメンホフ博士の時代、国際共通語のキーワードは単一性でした。多様な言語の存在を前にして、その多様性から共通項を取り出して1つの人工語として完成させていくというプロセスでした。ところが、英語の国際化プロセスはそれとまったく逆のように見えます。単一の言語が世界に広がるにしたがい、多様性を増してきたのです。 その当たりのことを、青山学院大学の本名信行教授が、『世界の英語を歩く』(集英社新書)の中で見事に論じています。 「英語は多様であるからこそ、共通語になれるのです。従来、共通語には『画一、一様』というイメージがつきまとっていました。しかし、よく考えてみると、多様な言語でなければ、共通語の機能を果たせません」 英語が多様であるというのは、私のような通訳者が失敗体験の中で嫌というほど感じさせられていることです。インド人の英語は日本人には発音がわかりにくいうえに、なにか古めかしい響きのある表現が多いという印象があります。中国人の英語も独特。とくにシンガポールで話される福建語の混じったシングリッシュ(Singlish)と呼ばれる英語はきわめてユニークです。フランス人の英語はおしなべてフランス語なまりがきつい。南アフリカの英語も、黒人のも白人(アフリカーンス系)のも通訳者にはくせものです。 ただ、これは考えてみれば当然のことです。英語という外来種が別の環境に入り込んでくれば、土着の種と混じり合って独自性を持つようになるのは仕方のないことですし、逆に独自性が知覚できるようにならなければ、英語の存在自体がまだその社会の一部になりえていないということになります。 ですからコミュニケーションという観点から言えば、大切なことは多様であっても理解し合えるようにルールをつくることでしょう。この点でも、本名教授の主張は実に明快です。 「英語を国際共通語と考えるならば、母語話者も非母語話者もともに相互理解の努力をすべきでしょう。私たちは中国人と交流するときは、中国人はこういう言い方をするという知識が必要になります。これはどの民族グループについてもあてはまります」(前掲書) その際、とくに大事なのが母語話者側の言語的寛容(linguistic tolerance)です。同書では、イリノイ大学のある言語学教授の言葉を次のように紹介しています。 「ネイティブ・スピーカーは言語的に不寛容な態度をとってはならないのです」 “・・・that the native speakers of English abandon the attitude of linguistic intolerance.” これに続いて、同じ教授は、「母語話者は非母語話者の英語のテープを聞き、英語文書を読み、十分に訓練すべきである」と論じています。実は、この箇所で、私は思わず「その通り」と唸ってしまいました。 非英語母語話者が英語を使えるようになるためにいかに労力と時間とカネをかけているか――そのことを考えれば、英語母語話者が非英語母語話者の英語をわかるように歩み寄るささやかな努力をすることを期待するのは当然のことでしょう。 英語コミュニケーションのルールという点で、本名教授は英語の話し方についても具体的な提案をしています。第1はイディオム(慣用的表現)は非常に一般的なものを除いて使わないということです。 この点で思い出すのが、あるシンポジウムでシンガポール駐日大使が言った言葉です。同大使は英語のイディオムが難しいたとえとして、”kick the bucket”(バケツを蹴る)という表現を紹介しました。「死ぬ、くたばる」という意味です。これは、首つり自殺をするときにバケツの上に乗り、首をロープにかけてからバケツをけっ飛ばすことから来ています。こんなのは普通の非英語母語者にはまったくわからないでしょう。ノンネイティブに向かってこういう表現を得意げに使うネイティブは国際コミュニケーターの資格はないということになります。 第2は「文法の基本に従うこと、とくに基本的文法を使用すること」(前掲書)です。たしかに、「ノンネイティブには主語・動詞・目的語(SVO)の構文がいちばん解釈しやすい」(前掲書)という事実は、通訳者が日々実感していることです。たとえば、同時通訳をするとき、話者の話す一文が長くても、通訳者は文章を短く切り、適当に接続詞を補いながら文章をつないでいきます。その方が同時通訳に向いているというのが最大の理由ですが、実はこの方が聞き手にもわかりやすいという面があります。 第3は「相手の文化的背景について知識を持ち、謝罪、提案、拒絶、感謝、要望、命令などをするときに、その文化に適したやり方を学ぶこと」(前掲書)です。 ここまで書いてきて、人権を語る際に出てくる言葉がよく使われていることに読者の皆さんも気づかれたでしょう。多様性、寛容、相手の文化への理解――当たり前のことですが、こういう要素が活かされなければ、どんな言葉もリングァ・フランカになりえないということです。 英語はとてもそこまでたどり着いているわけではありません。ただ、他の言葉に比べれば、比較優位にあると言えるのではないでしょうか。そして、その地位を決定づけることができるのは、使い手である私たち自身ということになります。 そこで、日本人はどう英語にアプローチすべきなのかという点です。まず、英語の多様性という観点から言って、ジャパニーズ・イングリッシュ(日本英語)でいいではないかと、私は強く思っています。エル(L)とアール(R)の発音が正しくできないからといって、ごはん(rice)がしらみ(lice)に間違えられたなどということは、現実の世界ではあまり考えられません。会話の成立する状況というものがあるのですから、たとえ日本人がliceと発音しても、ネイティブはそれがriceのことだとわかるはずです。そして、そのことが本名教授の言う「相手の文化的背景について知識をもつ」ことなのです。 この点に関連して、本名教授が「東海道新幹線の車内アナウンスなどは、ぜひ日本人にやっていただきたい」と書いていることに、まったく同感です。あらゆる機会を使って、ネイティブにジャパニーズ・イングリッシュに慣れ親しんでもらう必要があります。 実は、本名教授の本を読んでから公共交通機関を利用するたびに、そこで流される英語アナウンスに耳が行くようになりました。そんな中、これこそ日本人英語というのに出くわしました。ローカルな話で恐縮ですが、JR山手線・日暮里駅の成田空港行きスカイライナーが発着するホームで流れる日本人男性のアナウンスです。明らかに日本人がしゃべる英語ですが、発音が悪いわけではありません。ネイティブのように(そして新幹線の車内アナウンスのように)流れるような口調でなくゆっくりですが、実に明瞭に聞き取れます。これぞ手本と、私は深く感じ入りました。 日本人の英語アプローチについてもう1点忘れてならないことがあります。英語学習を受信型から発信型に転換することです。 「これからの外国語教育は、何よりもまず日本人としての、自分の借り物でない意見や考えを、外に向かって外国語で立派に言える人、日本に固有な事情を外国人に説明して、しかも相手を説得できる人を養成する、外向きで積極的な発信型へと重点を移す必要があります」 これは、言語社会学の泰斗で慶応大学名誉教授である鈴木孝夫の言葉です(『日本人はなぜ英語ができないか』岩波新書)。 なぜ受信型はよくないのか。それは、受信型を続ける限り、鈴木の言う「自己植民地化」(auto-colonization)から逃れられないからです。自己植民地化とは「現実には植民地にならないのに、心情的には相手との一体化を望んで、相手の文化的植民地となってしまう」(前掲書)ことをさします。別の言い方をすれば、「奴隷根性」(slave mentality)です。アメリカ人風にペラペラしゃべれるようになりたいと「駅前留学」する若者の群れのことです、と言えば言い過ぎでしょうか。 発信をするという点では、社会運動に関心をもっている人たちは、すでに恵まれたポジションにいます。発信する内容はすでにあるわけです。あとはそれを発信するツール(つまり英語)を鍛えていけばいいだけです。そこが難関なんですが・・・。 これも本名教授の受け売りですが、英語を勉強するのに、ただ漫然とやるのではなく、自分の目的に合わせて勉強する方法があります。これを「特定目的のための英語」(English for Specific Purposes=ESP)と呼びます。そのひそみに倣い、私も「民際英語」(Inter-People English=IPE)というのを考えました。「民際」という言葉をどこからいただいたかは、本書の別の箇所で紹介したいと思います。 民際英語というのは聞き慣れない言葉ですが、国・政府間で使われる英語ではなく、市民・民衆の間でコミュニケーションをはかるために用いられる英語という意味です。別に国家間で使われる「国際英語」と本質的に異なる「民際英語」というものがあるわけではありません。ようは、非政府主体、つまり市民が国内外で取り組むさまざまな国際活動に必要なツールとして英語を学んでいこうというのが民際英語です。 『世界の英語を歩く』によれば、マレーシアの「小学校英語指導要領」には次のような記載があります。 「英語は・・・実利的言語、すなわち使用を目的とした道具なのであり、鑑賞の対象ではありません」 “English…as a utilitarian language, a tool to be used instead of an object to be admired.” 民際英語が求めるのは、こういう心意気、そして割り切りです。つまり、日本人的な発音と文法で何が悪いという開き直りと、自分の思想を表現できる語彙力と構成力を養うというこだわりをもつことなのです。 さて、ここまで書き続けてきて、ようやく本書のタイトル(「ザメンホフ先生、すみません」)について語ることができるようになりました。 やはり、まずザメンホフ先生に謝らなければなりません。「来るべき世代の国際語は、必ず人工語に限られている」と訴えた先生に盾突いて、国際共通語になりうる英語の可能性について語っているのですから。でも、尊敬の念が消えることはありません。国際共通語によって「あらゆる国や民族の人々の間の相互理解を可能」にしようとした先生の遺志を引き継ごうと願っているのですから。 だから、親しみを込めて、「ザメンホフ先生、すみません」
2007年 07月 31日
いまから35年ほど前に、『20カ国語ペラペラ』(種田輝豊著、実業之日本社刊)という本が出版されました。初版は1969年、改訂版が73年に出ています。内容は題名が示すとおり、当時30代半ばだった著者がいかにして20数か国語を身につけたか、その格闘ぶりを著した本です。
私がこの本を読んだのが正確にいつだったかよく覚えていないのですが、おそらく中学3年か高校1年あたりだったと思います。のめり込むように読みました。著者のように外国語がうまくなりたいと心底思いました。また、著者がAFS(American Field Service)という交換留学制度の留学生として高校時代にアメリカに行ったことに強い憧れをおぼえ、「よしAFSでアメリカに行こう」と密かに決意もしました。その意味では、大げさになりますが、私の人生の進路を決定づけた1冊でもあります。 そこで今回、再読してみました。とうぜん絶版だったので、国会図書館から借り出してきました。当時、私がこの本を読んで一番印象に残った部分は、「ある朝、ホテルのロビーで」と題された本書のプロローグに当たるところで、内容は次のようなものでした。 あるホテルに早朝到着した白人の老外国人に係の者が知っているかぎりの言葉で話しかけたものの意思疎通がはかれない。そこで、20数か国語の達人である著者に助けを求める電話が入り、ホテルに駆けつけてみると、「はじめてきた異国のホテルで、彼はことばの通じない孤独におののいて」いた。 ここからの描写がドラマチックです。 著者はまずは念のために英語で聞いてみた。白髪の紳士は「顔をしかめ、頭を横にふる」。次にフランス語。これにも頭を横に。ドイツ語。これもダメで、次にロシア語、そしてイタリア語。老紳士の頭のふりは激しくなるばかり。そこで、著者は「ひょっとすると、スカンジナビアかもしれない」と考え、スウェーデン語で尋ねたところ、「老紳士はとびあがりそうに腰をうかし、救いの神にとびつきたい、とでもいうように両手を大きく広げ、満面によろこびをあふれさせた」。 著者の筆運びが臨場感あふれるものであったため、この場面は私に強烈な印象を残しました。そして、そのプロローグは次の言葉で結ばれています。 「わたしは、早く家に帰って、もう一眠りしようと、タクシーに乗った。車に揺られてうとうとしながら、老紳士の歓喜の表情が目に浮かんだ。『ことばは・・・』とわたしは考えた。意思の疎通に、感情の表白に、『ことばは人間のよろこびだ』と」 「ことばは人間のよろこびだ」――この言葉は35年を経ても記憶に残っています。いま読み返してみると、当時ドラマチックに感じた記述がちょっと劇画っぽいと感じてしまうのは、私が老成しすぎたせいかもしれません。 ともかく、この本のおかげで、私は英語に熱中しただけでなく、中高生時代にフランス語やスペイン語の勉強に挑戦しました。著者のようなポリグロット(polyglot)、つまり複数言語話者に憧れたからです。polyglotという単語を覚えたのもこの本からでした。挑戦の結果は、言うまでもありませんが、無惨なものでした。ただ、ポリグロットへの憧憬だけはいまも続いています。 ポリグロットの本は当時、『20カ国語ペラペラ』くらいしかありませんでしたが、その後何冊か似たような本が出版されています。たとえば――。 『ピーター流外国語習得術』(岩波ジュニア新書)――著者は、12か国語を操る数学者兼大道芸人のピーター・フランクルです。 『世界中の言語を楽しく学ぶ』(新潮新書)――本職は校閲者で、趣味の漫画を書きながら、100以上の外国語を学んでいる井上孝夫が書いた本。 『40か国語習得法――私はこうしてマスターした』(講談社ブルーバックス)――著者の新名美次はニューヨークで働く眼科医。 『わたしの外国語学習法』(ちくま学芸文庫、米原万里訳)――著者のロンブ・カトーはハンガリー人で、5か国語の同時通訳者・10か国語の通訳者・16か国語の翻訳者という超ポリグロット。 これらの本には、著者に共通する外国語に対する一つの思い入れがあります。それは『20カ国語ペラペラ』の著者の思いと響き合うものです。ピーター・フランクルは「外国語は自分の人生を豊かに広げる一生の宝」と呼び、井上孝夫は「決して盗まれることのない精神的財産」と表現しています。また、新名美次は「あなたを取り巻く新しい世界から、あなたはさまざまな人々の考え方や生き方を学び、あなたの人生は豊かになってゆくに違いない」と呼びかけます。 ポリグロットにとって、外国語の知識を「一生の宝」「精神的財産」と呼ぶことができるほどの価値とはどういうものなのか――本項では、ポリグロットの著作を参考にしながら、外国語を学ぶことの価値について考えてみたいと思います。 なんと言っても、外国語を習得することの意義は、その言葉を話す人びとの文化や社会についての理解が深まることです。つまり異文化理解です。フランクルはこう言います。 「だいたい人間はある言語に凝ってしまうと、その文化にも興味をもつものだから、そのことを通してものごとを上下に見る見方がなくなるのがふつうなのです」 フランクルの『ピーター流外国語習得術』には、ユダヤ人ゆえに受けた出生国・ハンガリーでの差別体験、大道芸人の立場から見る世界観、国際放浪で培われた人間観などが見事に消化された言葉がちりばめられています。上記の1節はその1つです。 どんな外国語であっても、それを学んでみると、その言葉が母語よりも優れた点に気づき、同時に母語の方がいい部分を改めて確認することがあります。それは言葉に限らず、その言語を通じてかいま見る文化や歴史についても言えます。人は対象となる異なる国の文化や歴史の優秀さに感銘を受けるとともに、自国の文化や歴史の誇るべき点を再認識します。要するに国や民族に優劣はないということです。お互い優れた点もあれば劣った点もあります。だからこそ互いに学び会えるのです。フランクルの言う「ものごとを上下に見る見方がなくなる」というのはそういうことです。 もう一人のポリグロット、井上孝夫は次のように言います。 「外国語を学ぶことは日本語のバイアスに気付くことでもあります。慣れ親しんだ母国語の論理と異なる外国語の論理を学ぶことで、物の考え方もより客観的になることと信じます」 このように、民族を優劣で論じないというのは、外国語を学ぶ効用の1つです。ただ、私はポリグロットの本を読んで、もっと大きな価値が潜んでいることに改めて気付きました。外国語を習得し、それを使ってコミュニケーションをするということは、その言葉を理解する具体的な人間と関係をつくることです。一方、異文化理解とは、相手を1つの集団として、多数の人間の集まった塊としてとらえる行為です。この異文化理解は大切な観念ですが、本当にもっと大切なのはその集団の壁を突き抜けて個人のレベルにまで降りて関係を切り結ぶことです。 近年、企業経営などでダイバーシティ(多様性)がはやりです。従来は、ダイバーシティといえば、人種や性別を超えて多様な出自をもつ人びとが協働することによって企業経営のダイナミズムを作り上げようというコンセプトでした。しかし、いまではさらに先に進んで、ダイバーシティは人種や性別と言った特定の集団の属性に係わる表現から、個性の多様性を意味する言葉に変わりつつあります。 大正時代の童謡詩人である金子みすずが書いた詩の中に「みんなちがって、みんないい」という一文がありますが、外国語を学ぶということは金子みすずの願いを体現する糸口を与えてくれるものなのです。 フランクルの言葉です。 「それこそ国家と一国民である自分とのあいだに一線を引くこと。一国民ではあるけれど、自分の歴史と教育と習慣と友だちをもっていて、全体としては日本人というか日本という文化に属していても、完全にそれに支配されているものではありません。一人一人はどこかしら、集団からははみ出しているものです。だから外国人と話しているときには、属していることを強調するのではなく、逆にはみ出しているところを頭のなかで認識して、そこから自分の世界を広げたほうが、人生は楽しくなると思います」 本書の冒頭で、湾岸戦争直後に東京でタクシーに乗ったときの話をしました。運転手が「最近、アラブの連中をあんまり街中で見かけなくなった。どこかで潜んでいるんじゃないか」と不気味そうに話しかけてきた体験です。もしこのドライバーに1人でもアラブ人と話をした経験があれば、違った言葉が出てきたはずです。具体的に言葉を交わしたことがないから、「アラブは怖い」という妄想が膨らみます。お互いに口をきくことができれば、妄想はしぼみ、親しみが芽生えます。たとえ気が合わなくても、「だからアラブはダメだ」と短絡的に決めつける誘惑が弱まります。そのツールとなるのが外国語です。 南アフリカの前大統領、ネルソン・マンデラの言葉に次のようなものがあります。 「相手が理解できる言葉で話しかければ、その言葉は相手の頭の中に届く。母語で話しかければ、それは心に届く」 “If you talk to a man in a language he understands, that goes to his head. If you talk to him in his language, that goes to his heart.” こんな話もあります。アジアのある国で開かれた国際会議に仕事で出かけたときのことです。出席者の中には当然、中国人や韓国人がいました。その人たちと話をするとき、会議のときだけでなく立ち話をするときも、使われるのは英語。会議終了後、同行したクライアントの1人がつぶやきました――「アジア人同士で話すときの言葉が英語だというのは悲しい」。 だから、本当は多言語習得が理想です。でも現実は、誰もがここで紹介したポリグロットのようになれるわけではありません。そこで共通語が登場します。共通語も理想を言えば、それはエスペラントのような中立言語であるべきですが、これも現実は英語が覇者になろうとしています。 ただ、たとえ相手の頭の中にしか届かないとしても、またアジア人同士で悲しい思いをしても、お互いが理解する言語を用いて人と人との対話を積み重ねる方が、「心に届く」言語にのみ頼って結果として対話の間口を狭めてしまうよりも望ましいでしょう。 そのとき、対話の基本は相手をステレオタイプに見ないことです。フランクルはこう言います。 「国際人がとるべきなのは、新しく人と出会ったときには、この人は自分にとって一生を通じて大切な友人になるかもしれない、大事な人になるかもしれない、そういう気持ちで最初をとても大事にして、つき合っていろいろ話して、時間をともに過ごすという態度です」 そして、もしうまくいかなかっとしても、「『やっぱり朝鮮人だ』とか『やっぱりハンガリー人なんてこんなもんだ』と言わないでほしいですね。どんなグループの人間にもいい人もいれば悪い人もいます」 外国人と話をするときの悪弊の1つとして、主語を1人称複数にすることがあげられます。「私は」ではなく「私たち日本人は」という言い方です。主語を1人称複数にする姿勢は、相手を2人称単数(あなた)でなく2人称複数(あなたたち)でとらえることにつながります。こうして個人同士の対話は、ときに集団同士のあてこすりに陥ってしまいます。 ですから、ステレオタイプに惑わされない対話は、お互いが1人称単数で会話をすることをつねに心がけることです。外国語を使えるということは、そういう豊かな人間関係を築くカギを手に入れることなのです。外国語を学ぶことの醍醐味がここにあると、私は思っています。 しかし、外国語が使えると言っても、お互いに意思疎通ができるほどのレベルに達すること自体が至難の業と愚痴が聞こえてきそうです。でも、安心してください。ポリグロットは優しく励ましてくれます。ロンブ・カトーの名言です。 「わたしたちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一のものだからです」 「たとえば」とカトーは言います。バイオリンがちょっとしか弾けない人が人前で演奏したら聴衆は著しい苦痛を強いられることになります。ところが語学は違います。外国語学習の世界では、「アマチュアが社会的利益をもたらし得る」のです。 同じハンガリー出身のフランクルも「あとがき」で同じたとえ話を紹介しています。おそらく同郷人として、また同じポリグロットとしてカトーの本を読んだことがあるはずです。そして、私と同じ箇所に強い印象を受けたのでしょう。 「あとがき」で、フランクルは「いろいろな趣味のなかでも外国語は二流でもいいのです」と言い、「二流でかまわないから、どんどん人と話をすることを通して結局、いろいろなことにふれることができて、その人の人間的な魅力が出てきます」と外国語の世界にいざなってくれます。 人間的魅力に溢れる読者の皆さん。外国語の世界に踏み入れて、さらに人間的魅力に磨きをかけませんか。そのとき、民際英語もかじってもらえれば幸せです。 < 前のページ次のページ >
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