深く静かに共鳴できる |
主人公は中学に入ってクラスになじめず登校拒否になった少女、まい。気分転換にと、母親に連れられて、田舎に一人で住むおばあちゃんのところを訪ね、しばらくいっしょに暮らすことに。おばあちゃんは英国人という設定だ。そして、なんと魔女だった。このあたりが児童書っぽい設定と思われるかもしれない。
この本の素晴らしいところは、そういうある意味ありきたりの設定をしておいて、「魔女」という言葉に人としての生き方の深い意味を込め、そしてそのことを見事に表現している点だ。私たちは、魔女というとハリー・ポッターに出てくるような不思議な力をもった老女を思い起こすが、本では魔女のことを、たとえば「体を癒す草木に対する知識や、荒々しい自然と共存する知恵。予想される困難をかわしたり、耐え抜く力。・・・とりわけそういう知識に詳しい人たち」と紹介し、むかし魔女が忌み嫌われた理由を、「ある秩序の支配している社会では、その秩序の枠にはまらない力は排斥される運命にあった」と、おばあちゃんに語らせる。
そのとき読者は悟らされる。むかし魔女として断罪され追放され処刑された人たちとは、自分で考え自分で行動し信念に生きた人たちだったことを。そして、いまの時代に「魔女」という言葉を蘇らせて、自分らしく生きようと格闘している人たちを応援しようとしていることを。
魔女修行を頼み込んだまいに、おばあちゃんはこう言う。「いちばん大切なのは、意志の力。自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力です」。でも、実はこれが一番難しい。一生ものの修行と言っていい。もう一度、おばあちゃんの言葉。
「最初は何も変わらないように思います。そしてだんだんに疑いの心や、怠け心、あきらめ、投げやりな気持ちが出てきます。それに打ち勝って、ただ黙々と続けるのです。そうして、もう永久に何も変わらないんじゃないかと思われるころ、ようやく、以前の自分とは違う自分を発見するような出来事が起こるでしょう。そしてまた、地道な努力を続ける、退屈な日々の連続で、また、ある日突然、今までの自分とは更に違う自分を見ることになる、それの繰り返しです」
でも、単なる修行論ではない。おばあちゃんのところで夏を過ごしたあと、まいは転校することで学校に戻る。しかし、転校を決めるまで、まいは悩む。転校しても根本的な問題は解決しない、敵前逃亡ではないかと。これに対するおばあちゃんの返事――「根本的な問題の解決は、まいのような魔女見習いには無理ですよ」。そして、こう言葉をつなぐ。「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」
この肩すかし感がすがすがしい。形容矛盾かもしれないが、自分らしく生きるというのも、つんのめりすぎると結構しんどい。そんなとき、自分で自分に肩すかしをくらわせると気分が楽になる。著者のこの絶妙なバランス感覚が私の波長にぴったり合う。
読後、同じ著者の本をもっといろいろと読みたいと思い、エッセイ本の『春になったら莓を摘みに』『ぐるりのこと』を買って、いま読んでいる。どちらも、先の本と同じく深く静かに共鳴できる素晴らしい本。この著者の作品を全部読んでみたい。